広島市レストハウスLINK集
鉄筋コンクリート製で、地上3階、地下1階建ての構造。1階は平和公園を訪れる観光客のための案内所・休憩所・土産物店となっている。
原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)・広島アンデルセン(旧帝国銀行広島支店)・旧日本銀行広島支店・旧広島大学理学部1号館などと並んで、現在では広島市内でも数少なくなった被爆建物の1つとして知られる。特に原爆被災の中心となった中島地区でただ一つ残った戦前からの建造物である(原爆ドームは厳密には中島地区の外に位置する)。
1929年、建築家・増田清(1888 - 1977)の設計により、大阪に本店のあった大正屋呉服店の店舗として中島本町(当時の町名)に建てられた(なお、増田は広島では他に本川尋常小学校(のちの本川国民学校、現在の本川小学校)・広島市役所(旧館)の設計も手がけた。両者は戦後補修を経て長く使用され、現在は解体されているもののその一部が被爆建造物として保存されている)。当時は3階までショーウィンドウを備えたモダンな雰囲気の店として市民に親しまれていたという。しかし太平洋戦争開始後に経済統制が強化されたため、呉服店は1943年に閉鎖された。こののち建物は広島県燃料配給統制組合によって買い取られ同組合の事務所として使用されることとなり、燃料会館と呼ばれた。
原爆投下時、燃料会館は元安橋を挟んだ対岸の爆心地から西南に約170mの至近距離に位置していた。被爆によって屋根が下がり、梁や床が破損して内部は全焼したが、頑丈な作りであったためか全壊は免れた。当時建物内には朝礼を済ませたばかりの37名がいたが、原爆炸裂に伴う放射線と熱線・爆風のため、29名がその場で死亡したとみられている。即死を免れ建物を脱出した8名についても、被爆の瞬間たまたま地下室に下りていたため奇跡的に軽傷ですんだ男性(当時47歳)を除きその後の消息は不明で、脱出後に急性放射線障害などで死亡したと推定されている。なお、燃料会館でただ一人の生存者となったこの男性は、被爆直後における爆心地附近の状況を知るほとんど唯一の生き証人として貴重な証言を残し、1982年6月、84歳で死去した。
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